
代表的な橋、言問橋、厩橋、両国橋
たくさんの橋の下を行く屋形船ですが代表的な橋を見てみましょう。
新大橋
両国橋が大橋と呼ばれていたため、新大橋と名づけられました。元禄6年5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が、江戸市民の不便解消のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられています。現在の位置よりもやや下流側に架けられていました。新大橋は関東大震災や東京大空襲の際にも隅田川の橋で唯一被災をまぬがれた橋で人助け橋と呼ばれました。現在の橋は昭和52年に架けかえられました。
永代橋
元禄11年5代将軍徳川綱吉の50歳を祝し現在の位置よりも上流側に架橋されました。忠臣蔵の四十七士は永代橋を渡って吉良邸での討ち入りの後、芝高輪の泉岳寺に向ったといわれています。1807年(文化4年)永代橋で崩落事故がおきました。深川の富岡八幡宮の大雨で3日遅れた祭礼初日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず真中から激しい轟音と共に崩落してしまいました。橋の上にいた人々は下を流れる隅田川に落ち、船遊びの為にでていた屋形船も落ちてくる人や木材が直撃して転覆し、犠牲者の総勢は1500人ほどとも言われています。現在の橋は大正15年に震災復興事業の第一号として架橋されました。現存最古のタイドアーチ橋です。
柳橋
神田川の一番下流に架かる橋です。橋の南詰にある碑文によると江戸時代後期幕府の命により、当時の町年寄の樽屋藤右衛門により木橋がつくられました。川口出口之橋、または矢の倉橋と呼ばれたそうです。当時は船遊び客の船宿が多く花街として新橋と共に有名になりました。柳橋芸者は唄や踊りを生業とし誇り高かったと言われています。明治20年に鋼鉄橋になりましたが、関東大震災で焼失したため震災復興事業として昭和4年永代橋のデザインを取り入れた現在の橋が架けられました。
